旧暦の新年を祝う江戸時代に、新暦で正月を祝う日本人がいた

とろみんです!

江戸時代といえば鎖国。

一部地域を除いて海外との交流や物の行き交いは禁止されていましたが

そんな時代に新暦の(太陽暦)で正月を祝っている日本人がいました。

ちょっとビックリですね。

今日は鎖国時代に西洋風な新年のお祝いをしていた人達について書いていこうと思います!

 

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目 次

 

日本で新暦の正月は誰が始めたのか?

 

最初は長崎の出島にいるオランダ商人が太陽暦(現在私達が使っている暦)の1月1日に集まってお祝いをしたのが始まりです。

そもそも、西洋のキリスト教徒さん達にとっては
正月のお祝いよりも

クリスマスのお祝いの方が重要なので、本当はクリスマスを祝いたかったのですが

そこは鎖国中の日本。

 

表立って12月25日にパーティーするのは

大問題になる事は承知の上なのでクリスマスパーティーは出来なかったんですね。

 

そこで

日本で祝われていた「正月」からアイディアを貰い、

クリスマスの代替祝い、という感じのスタンスで始めた。

 

旧暦で言うと11月終わり位の出来事なので目をくらますには良い時期だったんですね。

で。

このお祝いの席を”阿蘭陀正月(おらんだしょうがつ)”と名づけました。

それが現在の1月1日に正月を祝い始めたきっかけ。と言われています。

 

さて。写真は 五榜の掲示 第3札(深川江戸資料館にて撮影)

キリスト教は禁止。を表す内容が書かれている札です。

 

札を良く見ると

“切支丹” ”禁之通” ”邪門” ”慶応四年三月太政管”と書かれた部分が見えるような見えないような。

目を細めて是非見てみてください。

 

最初にキリスト禁教令が出たのが1612年です。

で。この五榜の掲示が出されたのが1868年。

 

実に200年以上もキリスト教の禁止が続いていた時代、

それでもこっそりと西洋式のお祝いを慣行しようとした人々がいたあたり面白いし、

人間って興味ある事への注力って半端ないんだなーと思わざると得ません。

 

ちなみに。。。。
現在出島では鎖国時代の町並みを復元するプロジェクトが遂行中です。
2016年10月からは新たに6棟、復元された建物が一般公開されているそうです。
そういうのを聞くとつい見に行きたくなってしまいますね。

フジテレビニュースネットワークさんご提供動画 出島復元プロジェクト

 

 

出島から始まり江戸でも祝われるように

 

そんな出島で始まった”阿蘭陀正月”(おらんだしょうがつ)

貿易関係に携わる者、通訳、蘭学を学んでいる者など日本人も招かれました。
役人もその祝いの席に出席する事もあったそうです。

その様にして西洋文化に触れる機会があった招待日本人達の中から

自分達の自宅でもパーティーを行う者が出てきました。

 

その一人が吉雄 耕牛(のちに幸左衛門と名を改める)

という、当時とても名の通った通訳の方でした。

そしてその吉雄家パーティーに招かれていた客の中に

江戸在住の大槻玄沢(盤水)さんという蘭学者がいました。

 

大槻玄沢はこの阿蘭陀正月(オランダ正月)に相当の衝撃を受けた様で

江戸に帰って今度は玄沢さん自身が幹事になり、”阿蘭陀正月”を開催する事にしました。

 

この様にして水面下では西洋風のお祝いが少しずつ広まっていたんですね。

引用:芝蘭堂新元会図 作者:市川岳山 早稲田大学図書館蔵

 

さて、上記の絵「芝蘭堂新元会図」は

その玄沢さんが江戸で阿蘭陀正月を開催している様子を描いたものです。

京橋にあった芝蘭堂という自分の塾に知人や師匠、弟子を集め

新暦の正月を祝う現在で言うところの新年会の様なものを開催しました。

 

時は1974年11月11日(寛政6年)。

この日が太陽暦の1975年1月1日だったそうです。

 

しかしながら

旧暦は毎年微妙にずれていってしまう事から

太陽暦ベースでのイベントごとは周知が難しいのもあり、

その後は便宜上、旧暦の冬至の日から11日後に開催。と決めて毎年新年をお祝いしたそうです。

 

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江戸のオランダ正月。だれが出席していて、どんな会だったの?

 

江戸で開催された阿蘭陀正月には

芝蘭堂新元会図を描いた市川岳山さん本人もこの会に参加していたのではないか。

と言われており

ほかにあの解体新書で有名な、前野良沢さん、杉田玄白さんや、そのお弟子さんである宇田川玄随さん、

稲村三伯さん、司馬江漢さんも出席していたと言われています。

 

絵の中の人々を見ると髪形が坊主頭の方が何名かいらっしゃるので
出席者の中には医師のお客さんも多かったようですね。

 

 

この絵を見ると随所に当時は珍しかったであろう西洋の物が沢山描かれています。

フォーク、ナイフ、ワイングラス、ガラスのコップ、
ワインや水を入れるカラフェと思われる入れ物。

 

そして壁には一角獣と思われる生き物を描いた絵が飾られ、
重厚感のあるイスに腰掛けて洋服を着ている人も見て取れます。

相当ハイカラというか
流石蘭学を学んでいる方々中心のパーティーなだけあり

当時の日本で触れることの出来る最大限の西洋文化、
西洋料理を取り入れたパーティーだった様ですね。

 

で、江戸での阿蘭陀正月は継続されたの?

 

出島で大体1670年前後に始まったとされる阿蘭陀正月
(最初はイベント化しておらず内々のパーティーだったと思われます)

それが時を経て

大槻玄沢さんが主宰で江戸では1794年に初めて開催されたわけですが、

 

玄沢さんが亡くなった後も尚続き、
玄沢さんのお子さんである盤里さんがお亡くなりになるまで44回開催されたそうです。

すごいですね。

 

最初に開催されたのが大体1837年とか1838年頃。

そしてそれから約35年後の1873年、元号も江戸から明治に変わると同時に

今度は旧暦が廃止され日本も太陽暦であるグレゴリオ暦を採用し、
現在我々が使っている暦に統一されたのでした。

 

現在では逆に旧暦の暦自体が忘れ去られていますが

江戸時代当時、旧暦の時代に現代我々が使用している暦を意識して
行事を行っている方々がいたんですね。

 

今日は以上です。ありがとうございました。

 

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旧暦の新年、江戸時代ではいつから正月準備をした?

 

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